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【◆重要◆】「2012年 文化の日」「文化」の「しんか」のために。:「こころせんたく」により「しんい」を感じる/観じる方法の「きづき」。

「わたし」への如何なる思念、想念等も「すべて」に感謝いたします。
ありがとうございます。

2012年11月3日(土)「文化の日」。

2012年9月から2012年末頃までは、「2013年以降」の「このよ」の「みきわめ」の「とき」。
毎週末の「神社でのめでぃてーしょん」で、「わたし」の「しんえん(深遠/深淵/神苑/新縁/親縁/清縁/信縁/芯縁/真縁/深縁/心縁/神縁))意識」に届き「感じた/観じたこと」等は、この場で「おつたえ」させていただくことは慎ませて頂くことになりました。

以下の内容は「2013年以降」の「このよ」とは直接関係ございませんので、ここに改めて記させて頂きます。
ありがとうございます。



{20;00頃の追記} 「矛盾」も存在する「しぜん」。
下の文中で、「論理的な観点」からは「矛盾」と成ることが含まれていることに気づく方もいらっしゃることでしょう。
「このよ」には「矛盾」すら存在する「しぜん」です。
このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』では、できるだけ「しぜん」を表現したく、下の文中内で論理的には「矛盾」とされる観点をも、敢えて「しぜん」と表現させていただきました。
「自分が正しい」「合理的・論理的であることが正しい」等のような「固定偏狭意識」に囚われてしまうと、「しぜん」に存在している、「きづき」「まなび」等の「きっかけ」とも成る可能性を秘めた、「矛盾のしんい」等を「きづく」ことができなくなってしまいます。
下の文中で「きづく」矛盾の「しんい」に関しては、この場で示唆したり明示することは敢えて慎ませて頂きます。
「このよこころ」「しぜん(自然/至全/至善/至禅/自禅)」です。
「禅」のごとく、「矛盾」を「きづいた」ご自身の「こころせんたく」次第、その「矛盾」に秘められている「しんい」をご自身により「きづく」ことが最善だと感じて/観じております。
ありがとうございます。



{【2012年12月1日追記】以下の内容は、「このよ」の「テクスト(事象・事情等)」に織り込まれ包み隠された「しんい」を「きづき」読み解く「ひとつ」の「たとえ」として示唆させていただいております。ありがとうございます。}




この国の国民や「文化」は、さらに成長・成熟「しんか」できるのでしょうか。

この国の国民や「文化」は、さらに成長・成熟「しんか」できるのでしょう。

この国の国民や「文化」は、さらに成長・成熟「しんか」できる、

「しぜん」。




そもそも、「文化」とは何ですか?


『文化(ぶんか、英語: culture、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。』
(Wikipedia「文化」より抜粋。)

<【参照】Wikipedia「文化」>


【文化(ぶんか)】
(1)〔culture〕社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。
(2)学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
(3)世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。文明開化。
(4)他の語の上に付いて、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。
(三省堂「大辞林 第二版」より)



「文化」の中にも

「しんい」が織り込まれ、

包み隠されている「しぜん」。



その「しんい」を「きづく」ためには、

「こころせんたく」が必要。



「こころせんたく」とは、

「こころ」をきれいに「澄ます」ための、

「心洗濯」。



同時に、

「心(自由意志等)」による、

「心選択」。


【参照】『【念のための示唆】 「こころせんたく」とは。』




これまで、このブログに記させて頂いた記事の中には、

「こころせんたく」を成すことにより、

読むことができる記事がたくさんあります。



逆に、「こころせんたく」を成さなければ、

読むことができない記事がたくさんあります。




その理由は、

このブログをできるだけ「しぜん」として表現し、

「しぜん」と「おつたえ」させていただきたいからです。



「このよ」に織り込まれ、

包み隠されている「グノーシス」等を含む

「しぜん」は

「しんい」を

懇切丁寧に「わたし」達には教えてくれません。




日常生活を通じて、

「このよ」「しぜん」から届く

「しんい」を受け取り、

理解するという「こころ」「こころせんたく」が無ければ、

「このよ」「しぜん」に織り込まれ、

包み隠されている「グノーシス」等を含む

「しんい」を感じる/観じることもできないのです。





残念ながら、

「心無い人間(度零)」達は、

「このよ」「しぜん」の「しんい」を「きづこう」という

「こころ」が無く、

「こころせんたく」はいたしません。
(「こころせんたく」は、できません。)


それどころか、

(このブログ内でも幾度もおつたえさせて頂いているにもかかわらず、

あの「3.11以前」の「ありさま」のように)

「悪しき誤解」等をして、

「自己呪縛」「自己呪詛」であることにも「きづく」能力・脳力が乏しく、

差別、偏見、誹謗、中傷、無視、排除、揶揄、嘲笑、侮蔑、蔑視、陰口、見下し、貶め等すら、

仕向ける愚行傾向もございます。。

(「わたし」は、それらの「悪意」等にも、「すべて」に感謝いたします。
ありがとうございます。)




一方、心ある「ひと」達は、

ひとみないちれつみなたいら」という、

「上下意識や優劣意識」等を超越した「こころ」なので、

「このよ」「しぜん」等に謙虚であり、

同時に、

愛や感謝等により、

「しぜん」と「こころせんたく」が成され、

素直な「澄んだ」成熟した精神を持っているので、

「このよ」「しぜん」「日常生活」等の中に織り込まれ、

包み隠されている「しんい」を

「しぜん」と「きづき」ます。



【★ご留意(追記)★】心ある「ひと」と、心無い人間(度零)の「ちがい」。
外見は、同じ「人類」であっても、心ある「ひと」と、心無い「人間(度零)」とは異なることも「しぜん」です。
心ある「ひと」と、心無い「人間(度零)」が異なっていることは、差別や偏見等ではなく、「ちがい」という、とても「しぜん」な「区別」です。
人類において、「女性」と「男性」とが明確に異なり、「ちがい」が存在し、そして「区別」されているように、心ある「ひと」と、心無い「人間(度零)」とは異なり、「ちがい」として「区別」されます。
「ちがい」の「区別」には、「上下優劣判断意識」はございません。
悪しき誤解無きよう。ありがとうございます。
心ある「ひと」と、心無い「人間(度零)」は、確定・固定された「区別」ではなく、可逆的です。
心無い「人間(度零)」も、「こころせんたくしだい」で、心ある「ひと」に成ることができます。
また、心無い「人間(度零)」という表現を残念ながらせざるを得ない理由は、心無い「人間(度零)」は「しんのじぶん」を「きづいて」おらず、我欲/強欲や形骸化した常識等に囚われ、社会意識や集団意識等に隷属する傾向が強いからです。
心ある「ひと」は、社会意識や集団意識等に隷属せず調和しながら、「しんのじぶん」を「きづいて」いる(「きづこう」としている)人類です。
同じ「人類」でありながら、心ある「ひと」と、心無い「人間(度零)」が「このよ」に存在する「しぜん」。
「わたし」は「すべて」に、感謝します。ありがとうございます。




そのような観点からも、

このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』は、

「こころせんたく」を成した

心ある「ひと」が、

「しぜん」と「きづく」ことが最善だと強く感じ/観じ、

無理に気づかせるようなことは、

慎ませて頂いております。

ありがとうございます。



例えば、

このブログの初期(2008年10月頃)に「おつたえ」させていただいた

いきるよろこびのなかにそんざいする。(2008年10月24日)』の頁は、

以下のように表示されております。


<『いきるよろこびのなかにそんざいする。』表示>
しんいというものは、いとをもってうけとろうとすることにより、いしきにとどくらしい。つまりこのよのさまざまなじしょう、いな、すべてのじしょうにおりこまれているしんいをさとるには、しんをさとるいとをもっていしきによってうけとりりかいしようとしなければづかずいしきにとどかずみすごされたんなるぐうぜんとしてみなそれぞれじぶんのじんせいにおいてとどいていしんいもみなながされてしまう。しかしいしきにとどかぬとしてもこころにはしかときざみこまれているため、そのきざまれたしんいがしかるべきときにさまざまなじしょうとしていしきされることはしぜんのなせるわざである。じこひていというしんりさうがあるが、きづいていても、いしきにとどいていても、それをいとてきにみとめずべつのかいしゃくんりをくわえてべつのかいしゃくとしていしきにとどめるひとびともそんざいすることはひていしえないじじつである。しかしそのようなたいどをこうどうとしてあらわしたとしても、みなおとずれるこのよのそつぎょうのじてんではすべてがあかされる。いまれをおつたえさせていただいているこのにくたいにやどったいしきも、そして、いまこれをよんでくださっているあなたさまにやどったいしきも、かならずいずれはそのいしきはそれぞれのにくたいをはなれ、ぶっしつかいであるこのよをそつぎょうする。しかし、これをおつたえさせていただいているいしきや、これをよんでくださっているあなたさまといういしきは、ひともにこのしんいによってつながりじくうをちょうえつしてゆうごうしていることも、これまた、ひていできないしんじつである。しんいとは、このぺーじのように、いとをもってうけとろうとするいきるよろこびのなかのいしきのこころにとどきそんざいする。
まがたまぱじゃま。





上記の内容の「しんい」を理解するためには、

「こころせんたく」が成されることが必要です。


「しんい」を理解する。(もしくは、「しんい」を理解したい。)

という、「こころせんたく」を、

まず、成さなければ成りません。



その「心」により、

「せんたく」する。

という「決意」が生じ、

「しんい」を受け取る(理解する)、

という「覚悟」が生まれます。




その「決意」「覚悟」等の「こころせんたく」と共に、

このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』の記事頁内に

カーソルを置き、

マウスの「右クリック」を成すと表示される項目のうち、

「すべて選択」を「せんたく」することにより、

ブログの頁画面の文字範囲が「すべて選択」され、

それまでその頁内に織り込まれ、

包み隠されていた

「こころせんたく」を成さなければ

読むことができなかった文字が、

「すべて選択」を

「せんたく(選択)」するという、

「こころせんたく」により、

文字部分が範囲選択され

伏せ字の箇所が浮き出て、

読めるように成ります。



『いきるよろこびのなかにそんざいする。』の頁内に織り込まれ、

包み隠されていた「しんい」は、

「こころせんたく」を成すことにより、

下の「<『いきるよろこびのなかにそんざいする。』頁内に隠された「しんい」全貌。>」ように、

読めるようになります。




この「一連の『こころ』の行為」は、

まさに、

「このよ」「しぜん」に織り込まれ、

包み隠されている「しんい」を感じる/観じることにも、

「しぜん」と「つうじて」います。



<『いきるよろこびのなかにそんざいする。』頁内に隠された「しんい」全貌。>
しんいというものは、いとをもってうけとろうとすることにより、いしきにとどくらしい。つまりこのよのさまざまなじしょう、いな、すべてのじしょうにおりこまれているしんいをさとるには、しんをさとるいとをもっていしきによってうけとりりかいしようとしなければづかずいしきにとどかずみすごされたんなるぐうぜんとしてみなそれぞれじぶんのじんせいにおいてとどいていしんいもみなながされてしまう。しかしいしきにとどかぬとしてもこころにはしかときざみこまれているため、そのきざまれたしんいがしかるべきときにさまざまなじしょうとしていしきされることはしぜんのなせるわざである。じこひていというしんりさうがあるが、きづいていても、いしきにとどいていても、それをいとてきにみとめずべつのかいしゃくんりをくわえてべつのかいしゃくとしていしきにとどめるひとびともそんざいすることはひていしえないじじつである。しかしそのようなたいどをこうどうとしてあらわしたとしても、みなおとずれるこのよのそつぎょうのじてんではすべてがあかされる。いまれをおつたえさせていただいているこのにくたいにやどったいしきも、そして、いまこれをよんでくださっているあなたさまにやどったいしきも、かならずいずれはそのいしきはそれぞれのにくたいをはなれ、ぶっしつかいであるこのよをそつぎょうする。しかし、これをおつたえさせていただいているいしきや、これをよんでくださっているあなたさまといういしきは、ひともにこのしんいによってつながりじくうをちょうえつしてゆうごうしていることも、これまた、ひていできないしんじつである。しんいとは、このぺーじのように、いとをもってうけとろうとするいきるよろこびのなかのいしきのこころにとどきそんざいする。
まがたまぱじゃま。


(上記「しんい・めっせーじ」内で、「大きな文字」で記されている箇所は、「こころせんたく」を成す前の「頁画面」内に明示されていた「い・き・る・よ・ろ・こ・び」という文字群です。)



このように、

このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』を読むことや、

日常生活等を通じて、

「このよ」「しぜん」から届く

「しんい」を受け取り、

理解するという

「こころせんたく」が無ければ、

「このよ」「しぜん」に織り込まれ、

包み隠されている「グノーシス」等を含む

「しんい」を感じる/観じることはできません。






同様に、

2008年10月24日におつたえさせていただいた

下の『しんいさとるこころ。』の中でも、

「このよ」「しぜん」に織り込まれ、

包み隠されている「しんい」を感じる/観じることに、

「しぜん」と「つうじて」いる観点を

「きづく」ことができます。




<『しんいさとるこころ。』表示>
しぜんのなかにはながさいているかしそのはなはいちりだけではない。とおくからみわたすとむすうにさているためかずをかぞえるとはふかのうだ。しかしちかづいてみるとたしかにいちりんのはながさいている。そのいちりんのはなのなはしらない。しらないというなまえだそうだ。のよはかわったなまえがそんざいすることもまたしぜんなことでる。もしそのいちりんのしらないというなのはなをつみとったとすと、そのしらないといういちりんのはなはつみとられたことになり、はなとしてのくせいてきなそんざいはへんかする。そのへんかにやがてなんらかのめいしょうがふされるがそのいかうにもしょうされるかのうせいをひめためいしょうはつみとったじてんではなにもふされてはいない。なまえめいしょうというものはにんげんのにんちするためのたんなるどうぐにすぎないのであるがそのめいしょうがそんざいするとしないとではおおなにんしきのへだたりがしょうじるものである。これをよんでくださっているあなたさまのなかには、もうすでにこのなかにおりこまれているしんいにきいたかたもいらっしゃるだろう。しかしきづかずにはいだけをかんじてはいるもののみすごすひともいるだろう。きづいてもいしきしないひともいるだろう。しんいとはそのようなものであるというしんじつはこのよのどこにかくされておりおりこまれているのだろうか。それはいきるよろこびのなかにそんざいするらしい
まがたまぱじゃま。



上記の「しんい・めっせーじ」の中では、

はっきりと

『しんいここにあるぞ

はよきづけ』

と、届き、

波動・雰囲気(言語)として

「このよ」に

「しぜん」と

「おつたえ」くださっております。



日常生活等を通じて

その「できごと」事象・事情等の中には、

「このよ」「しぜん」の「しんい」が

はっきりと

織り込まれていることもあるのですが、

そこでもやはり、

「しんい」を受け取り、

理解するという

「こころせんたく」を成さなければ、

日常生活の「できごと」の中に

「しんい」が

はっきりと

明示されているにもかかわらず、

その「できごと」の複雑さや

その「できごと」に様々に関連する

「事象や事情」の背景等に埋もれてしまって、

感じ/観じられなくなってしまったり、

見過ごしてしまうことが

多々、あります。




上に記した『しんいさとるこころ。』に対して、

織り込まれている「しんい」を受け取り、

理解しようとする

「こころせんたく」を成すことにより、

下の「<『しんいさとるこころ。』内の「しんい」拡大表示。>」に示したように、

その中に織り込まれている

『しんいここにあるぞ

はよきづけ』

という一連の「文字」が

さらにはっきりと

把握でき、

織り込まれている「しんい」を

感じる/観じることが

できるようになります。


<『しんいさとるこころ。』内の「しんい」拡大表示。>
しぜんのなかにはながさいているかしそのはなはいちりだけではない。とおくからみわたすとむすうにさているためかずをかぞえるとはふかのうだ。しかしちかづいてみるとたしかにいちりんのはながさいている。そのいちりんのはなのなはしらない。しらないというなまえだそうだ。のよはかわったなまえがそんざいすることもまたしぜんなことでる。もしそのいちりんのしらないというなのはなをつみとったとすと、そのしらないといういちりんのはなはつみとられたことになり、はなとしてのくせいてきなそんざいはへんかする。そのへんかにやがてなんらかのめいしょうがふされるがそのいかうにもしょうされるかのうせいをひめためいしょうはつみとったじてんではなにもふされてはいない。なまえめいしょうというものはにんげんのにんちするためのたんなるどうぐにすぎないのであるがそのめいしょうがそんざいするとしないとではおおなにんしきのへだたりがしょうじるものである。これをよんでくださっているあなたさまのなかには、もうすでにこのなかにおりこまれているしんいにきいたかたもいらっしゃるだろう。しかしきづかずにはいだけをかんじてはいるもののみすごすひともいるだろう。きづいてもいしきしないひともいるだろう。しんいとはそのようなものであるというしんじつはこのよのどこにかくされておりおりこまれているのだろうか。それはいきるよろこびのなかにそんざいするらしい
まがたまぱじゃま。


(上記「しんい・めっせーじ」内で、「大きな文字」で記されている箇所は、「こころせんたく」を成す前の「頁画面」内に織り込まれていた「し・ん・い・こ・こ・に・あ・る・ぞ・は・よ・き・づ・け」という文字群です。)




このように、

このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』を読むことや、

日常生活等を通じて、

「このよ」「しぜん」から届く

「しんい」を受け取り、

理解するという

「こころせんたく」を成すことにより、

「このよ」「しぜん」に織り込まれ、

包み隠されている「グノーシス」等を含む

「しんい」を感じる/観じることができるようになり、

そのことは、

まさに、この国「このよ」の「文化」のさらなる成長・成熟

「しんか」に「つながる」ことと

「かくしん」しています。




ありがとうございます。






最後に、

この観点から、

あの「3.11(東日本大震災)」前の、

「2010年12月」に

「わたし」に届き、感じた/観じた

「このよおおせんたくおおつなみ」に纏わる、

一連の「しんい・めっせーじ」をこの場で、

再確認していただけたら幸いに存じます。


【◆重要◆】
以下、上記一連の内容に「つながり」、
「こころせんたく」成した人だけが読めるように「伏せ字」とさせていただだきました。


ありがとうございます。



2011年3月14日;きぼう。。。】
「わたし」への如何なる思念想念すべてに感謝いたします。ありがとうございます。

このよおおせんたくおおつなみ」の「ひとつ」である「東日本大震災;日本時間2011年3月11日午後2時46分発生、東北・三陸沖震源、M9.0」等に関して、心よりお見舞い申し上げます。
(2011年4月1日震災名称変更)

(以下、「しんい」をご理解いただける「ひと」の「せんたく」によりお伝えさせていただくこととなりました。ご了承下さい。ありがとうございます。)

「3月6日」に、「よろしいでしょうか?」を記させていただきました。
そして「3月8日」にあまりにも衝撃的な「しんい」が伝わり感じ/観じましたので、(「よろしいでしょうか?」内の「3/8日の追記」にも記したとおり)その日はブログアップを躊躇しており、ブログアップはせず「下書き状態」にて保留しておりました。申し訳ございません。

(「よろしいでしょうか?」内の「3/8の追記」にも記したとおり)翌日3/9、お昼頃「宮城県北部にて震度5弱の地震」が発生し、心改め、「3/8日の追記」を記したこの頁をすぐにブログアップさせていただくことにしました。

そして「3/11;東日本大震災」発生。。。

以下の内容もとても衝撃的でどのようにお伝えさせていただいたらよろしいのかとても心苦しいのですが、真摯に誠実にこの場をもってお伝えさせていただきます。何卒「しんい」をご理解いただけましたら幸いに存じます。
ありがとうございます。

1,「3/11の東日本大震災」は「かわきり」です。。。
2,これから2011年の秋頃まで(もしくは遅くとも冬)にさらに「このよおおせんたくおおつなみ(=「こころせんたくしだい」の様々な困難試練や様々な好機)」が訪れます。
3,その「このよおおせんたくおおつなみ」により、「ひと」「わたし」達は、さらに「しんい」を「こころせんたくしだい」きづくことになります。
4,3/11の「かわきり」により、「ひと」の誕生にたとえるのであれば、それは母胎の「破水」のような状態です。
5,「しんせい日本」がこの世に誕生するための「かわきり」です。
6,これから「しんせい日本」は「さんどう」を通過し始めます。
7,「しんせい日本」がこの世に無事に誕生するか否かは、「ひと」「わたし」達の「こころせんたくしだい」です。
8,「ひと」「わたし」達の「こころせんたくしだい」により、「  」の可能性もございます。
9,3/9にブログアップした「よろしいでしょうか?」の「3/8の追記」に記されている「2011年の秋頃まで(もしくは遅くとも冬)には」とは、「さんどう」を通過している期間です。
10,その期間は、昨日ブログアップさせていただいた「。。。(れいせい。れいせい。れいせい。)」がとても重要です。
11,「れいせい」により「こころせんたくしだい」、いずれ「しんせい日本」がこの世に誕生するのです。
(【ご留意】「しんせい日本」とは、国籍、肌の色等、一切の制限はございません。「ひと」の「こころ」が「しんせい日本」に「しんえん(真縁/深縁/心縁/神縁)」あるか否かの「ちがい」だけです。)
12,「れいせい」の心により「しんせい」に成ります。(「れいせい」から「しんせい」。)
13,2011年秋頃まで(もしくは遅くとも冬)の「さんどう」を通過して、無事、「しんせい日本」がこの世に誕生した後、「2012年頃(2012年の一年間程度)」、さらなる「つぎ」がございます。(その「つぎ」の「しんい」はこの場でのお伝えは慎ませていただきます。ご了承下さい。ありがとうございます。)
14、しんいはみなでしあわせ。


【重要点】
◆「いま」は「れいせい」に「つとめる」。
◆「れいせい」の心により「しんせい日本」が誕生する全感謝の「こころせんたく」を成す。
◆みなでひとつ。みなでしあわせ。ありがとうございます。





【2011年3月21日追記】
2010年12月にとどき感じた/観じた「このよおおせんたくおおつなみ」の「しんい」一覧

(【留意】以下の各項目をクリックして表示される頁内でも、「こころせんたく」を成した「ひと」に「おつたえ」させていただいております。)

2010年12月5日(日); (おおつなみ。)

2010年12月6日(月);(しんいかなわぬこころおこないおおつなみとなりあらわれるしぜん。)

2010年12月7日(火);(おおつなみあらわれるまえにかいしんこころせんたく。)

2010年12月8日(水);(たのしむがよいおおつなみ。)

2010年12月9日(木);(しるしきづきかいしんするがよいしんい。)

2010年12月10日(金);(ゆるしあいしんのあいこころつながるしんい。)

2010年12月16日(木);(しんいしんずいしんのじぶんさらにきづくかいしん。)

2010年12月17日(金);(ふあんいらんたのしむがよいこれからはじまるしんい。)

2010年12月19日(日);(しんいかなうのぞみねがいかなうひびつとめしんか。)

2010年12月23日(木);(しんいしんずいしんのじぶんさらにきづくたのしむしんい。)




★★「しんい・めっせーじ」まとめ(7);2010年9月1日~2010年12月31




【「3.11 けいい」】





わたし」は、「いま」できる「このよこころ」の「さいぜん」を成し、

「わたし」は、「すべて」に感謝します。

「みちのかみ」「やみわかみ」「このよこころ」「すべて」「しぜん(自然/至全/至善/至禅/自禅)」。

みなでひとつ。みなでしあわせ。

しんのしあわせみなそれぞれじぶんじんせいさいぜんにいきることいかすこと。


ありがとうございます。

「わたし」への如何なる思念、想念等も「すべて」に感謝いたします。
ありがとうございます。


すべてに、ありがとう。全感謝。

{【2013年2月2日の変更】『2013年2月2日(土)14:00過ぎ「隅田川河畔ランニングコーナー」での出来事;「殺したい心にも『愛』を感じた/観じた「このよ」への『愛』。。。全感謝。」』に記したように、「どれい」という表現は「あしきごかい」を浄化させるため、「度零」に変更いたしました。
ありがとうございます。}



{注;以下、「スポンサー」が表示される場合がございます。このブログはスポンサーの協力により高速表示等が可能となっております。「スポンサーおよびその内容」等に関しては、ブログ「すべてに、ありがとう。全感謝。」の管理者まがたまぱじゃま。は一切関与しておらず、ブログ運営会社FC2 Inc.によるものです。}
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プロフィール

Author:magatamapajama
まがたまぱじゃま。全感謝。

愛知で誕生。日本(関東)在住。
すぴりちゅありすと。全感謝。

( >>= ATTENTION =>> To non-Japanese speaking people; "Automatic translation function" of Web browser, such as "Live S. Translator" will sometimes NOT show CORRECT meanings of this blog. When you translate this blog into different languages, please Do NOT be MISLED by the wrong translations. Thank you very much.)

毎週末に近所の神社でめでぃてーしょんをさせていただくさなか、「おつたえ」をいただきます。
幼少時代から「こころのこえ」のようなものを感じており、青少年時代に、あるきっかけで毎日「お墓参り」をさせていただいたなか、「ご先祖様(?)」からの「こえ」を聞くようになり、「こころのたいわ」を意識するようになりました。「物質ではない存在とのコミュニケーション」を学ぶことができました。

数年前から毎週末にお世話になっている、近くの神社でのめでぃてーしょんを通じて、「おつたえ(しんい・めっせーじ)」をいただき、最近はその「おつたえ」が「くげん」となっております。
(◆2010年クリスマスより「おつたえ」等は「そのひ」まで「ふす」こととなりました。ありがとうございます。)

<詳細は、下のカテゴリの中の「◎はじめに。」をご一読頂けましたら幸いです。>

{★このブログはリンクフリーです。リンクご自由にどうぞ。}
(一部「コメント」等、筆者以外の人物における行為により記された箇所を除き、このブログ『すべてに、ありがとう。全感謝。』の記述内容は筆者「まがたまぱじゃま。」個人に基づくものです。)

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